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インド新聞 コラム

ウォールアートフェスティバル・イン・ニランジャナスクール

なぜ、インドでウォールアートフェスティバルなのか?


はじめまして、ブッダガヤの浜尾和徳こと「おかず」です。マガダ大学で学びながら、日本語クラスで教えています。インドでの第一ミッションは、フェスティバルのコーディネーターとして、インド人と一緒に「ウォールアートフェスティバル」を成功させること。日本からは10人ほどの学生ボランティアと、20人ほどの旅行客、イギリスやオーストラリアからも、はるばるこの芸術祭を目指してやってきてくれる人たちがいるので、やりがいがあります。

僕たち日本人のボランティアチームがオーガナイズしてきた「ウォールアートフェスティバル・イン・ニランジャナスクール」。ビハール州の村にある小さな学校を舞台に、インドと日本の一流アーティストがコラボレートするという画期的な芸術祭だ。おそらくビハール初の国際的な芸術祭だと思う。開催まであと1か月あまり。昨年9月にインド入りして、準備期間は長いように思えてあっという間だった。2月20日の初日までにやらなければならないミッションはまだまだ山積み。まるで導火線に火のついた爆弾を持っているみたいな気分だ。

大学を卒業したばかりの僕がなぜインドという国で芸術祭を開催しようなどという大それたミッションを遂行するに至ったか。

芸術祭の会場となるニランジャナスクールの校舎は、日本人の学生50人が、アルバイト代を貯めて建てたものだ。学校の母体はインドの現地トラストだが、将来、学校の先生になりたい人間が集まる僕の母校、東京学芸大学の学生たちが、たまたまインド放浪中にこの学校を訪れ、国際的な支援の一つとして、満足な校舎のないインドの私設の学校に、学ぶ場をプレゼントしたいとアクションを起こしたのだった。06年当時、学生団体は「fools」と命名されて、校内にちょっとした旋風を巻き起こしていた。実は僕はその50人のメンバーではなかった。そのころは、ワンゲルやバレーサークルに顔を出すミーハーな学生だったのだ。卒業を控えた春休み、同じ学科に「fools」の友人がいて、「僕らが建てた学校へ行こう」とインドへ誘ってくれたのをきっかけに、偶然、ニランジャナスクールと関わるようになったのだった。

気がついたら、「fools」の誰よりも、ニランジャナスクールに長く深く関わっていた。人生設計に「国際支援」はなかったけれど、大学を卒業したら、教師になる前に世界へ出て、これから自分が生きていく日本という国を外から見てみたいと思っていた。2008年の初インド以来、日本でバイトして滞在費を稼いでは渡印を繰り返した。あるとき日本に帰ると、ひとつのプロジェクトが産声を上げていた。ニランジャナスクールを支援するグループが、学校の白い壁を使って、ウォールアートができないだろうかと考えていたのだ。

このプロジェクトに惹かれた理由は、現地のインド人と一緒にプロジェクトを進め、システムを構築していくこと。その上で将来的には現地の人だけで芸術祭を運営し、子どもにとってだけでなく、ブッダガヤの町にとっての芸術祭になることを目指すという点だった。

インドで芸術祭を構築するためのマニュアルはどこにもない

フェスティバルにコミットしてくれている「おかず1号」~「おかず6号」たち。写真は左からパラカス、おかず、前列デパック、後列アミット、ラケーシュ、前列マニー、後列シヴナーラーヤン。メディアへの声がけ、協賛のお願い、日本からのゲストのアテンドなどを果敢にこなす。この「おかず」の分身たちのことは次回書こうと思っています。

マガダ大学に留学しよう、ニランジャナスクールで運営を手伝おうと決心した矢先、「じゃ、インドでおかず君が組織作りを進めて!」とあれよあれよと巻き込まれ、今はプロジェクトのコアメンバーである。(注/僕の呼び名はおかず。浜尾(はまお)和徳(かずのり)のまんなかの部分をとって「おかず」と呼ばれている)。僕、「おかず」の役目は、現地の大学や美術学校との活動、組織作り。会場となるニランジャナスクールとの打ち合わせ。ブッダガヤの町の人たちや村人たちへの宣伝など。要は、インドでできるすべてが僕のミッションだった。

芸術祭のためのマニュアルがあるのかどうかは知らない。しかし、これだけは言えるだろう。芸術祭と無縁の、インドでもっとも貧しいと言われるビハール州で芸術祭をオーガナイズするための仕様書やマニュアルはひとつもないということ。最初は、一体どこから手をつけていいのかすらわからなかった。周囲の人たちに必死に「ウォールアートフェスティバル」と連呼しても、何も通じなくて、虚しさばかりが心に積もっていった。

ただ、以前から日本語を教えてほしいという青年には何人にも出会っていた。なぜ日本語なのかと尋ねると、「日本人が好きだから」、そして「日本の企業に就職したいから」と答えた。そんな彼らの熱意に応じて、時間をとって教えようとしたが誰も長続きしなかった。――何かしたいのだが、何もできずに、外国人の観光客を案内してチャンスをつかもうとしている青年。英語、フランス語、日本語を独学で話し、お金がすべてだと言いきっている青年もいた。社会状況を変えたくて、NGO活動に協力を惜しまないやつとも出会った。思うままに勉強をし、テレビやインターネットを通じブッダガヤの外、インドの外に積極的にアクセスしていて、能力ある青年たちもいる。みんながいつか小さなブッダガヤを出ようと野望を抱きながらも、階層的な社会の仕組みの中で、心に何かを秘めながらブッダガヤと言う土地で生きていた。

いつしか、彼らの姿が自分と重なっていった。生まれた場所は違っても、これから世界に出て行こうとする者の思いには共通項がある。僕がもしもインド、ビハール州に生まれていたら、きっと彼らととても似ていたと思う。

今思えば、この青年たちと「ウォールアートフェスティバル」のために何かできるのではないかと思ったのがひとつの突破口だった。ブッダガヤから出ていくことを考える前に、自分たちの町を自分たちが過ごすのにふさわしい町にすること。最貧困地区などというレッテルを払拭すること。そのために、まず考えたのは、彼らに「おかず2号」「おかず3号」……になってもらうこと。自分と同じ思いで、フェスティバルをオーガナイズしてくれる自分の分身がいたら、こんなに力強いことはないではないか。

もちろん、国も育ちも違うから、分身とまではいかないかもしれない。けれど、たとえば「おかず1号」からは、ブッダガヤにダライ・ラマの取材できていたインドのテレビ局の人間を捕まえ、「ウォールアートフェスティバル」も撮りに来てほしいと伝え、取材に来る約束を取り付けたという報告がきた。列車のキャンセルで僕がデリーで足止めを食っていたときのこと。なかなかやるじゃないか、「おかず1号」。

この芸術祭の目的は二つ。

一つは、子どもの創造力を刺激するエキシビションにすること。

そしてもう一つは、インドの中でも低く見られがちなビハールの潜在能力をメディアなどを通じて外へ伝えること。

その結果、何が起こるのかはわからない。美術作家を志す子どもが増えるかもしれない。会場を提供する学校への支援が増えるかもしれない。町の人々の美術に関する関心が高まるかもしれない。町にアートに関係したビジネスが始まるかもしれない。ビハールにやってくる企業が増えるかもしれない。よくも悪くも変化は起こるだろう。しかし逞しいインド人たちは変化にも動じることなく、自分たちの糧としていくことだろう。

そんな想像を従えつつ、まずはWAFを通じて、この芸術祭に参加する人間たちと、彼らが生きている世界の事を伝えることから始めようと思っている。

執筆者

浜尾 和徳
ウォールアートフェスティバル・イン・ニランジャナスクール
「ウォールアートフェスティバル・イン・ニランジャナスクール」ボランティア・コーディネーター。

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